青春シンコペーション


第7章 すれ違う心(3)


家では、美樹と黒木が待機していた。
既に10時半を過ぎているというのに、まだ誰からも連絡がなかった。
「どうしたのかしら?」
「恐らく事後処理に戸惑っているのでしょう。心配ありませんよ」
黒木が慰める。
「そうかもしれませんけど……」
井倉や彩香が傷付いたのではないかと思うと胸が痛んだ。
美樹の隣では猫達が重なり合って寝ていた。

「黒木さんは今回の作戦の全容をご存知なんですか?」
「いや。私は彼に頼まれたことしか知りません」
「そうですか」
美樹が静かにため息を漏らす。

――結局、井倉君達を巻き込んでしまいましたね

昨夜、ベッドでハンスが言った。

――けど、これですべてがうまく行く
(本当にそうかしら?)
――取り逃がした犯人をおびき出したんです
(でも、それって……)
――日本の財界のトップ二人とその子息、令嬢とのお見合いです。奴らにしたら格好のターゲットでしょう
(それじゃ、囮ってことじゃない? あまりにも危険な賭けだわ)
――失敗は有り得ません。必ず奴を捕まえる。僕にこれだけの傷を負わせたんだ。少なくとも、この傷のお礼はしてやるさ
(じゃあ、井倉君達が負うかもしれない心の傷は?)

リスクは回避できないのだろうかと、美樹は思った。しかも、彼らだけではない。ここにいる黒木やフリードリッヒまで、既に巻き込んでしまっているのだ。何かあってからでは取り返しがつかない。だが、それを承知で作戦を実行したのだ。すべては、ルドルフ・バウアー。あの男の指揮の下で……。

電話が鳴った。フリードリッヒからだ。
「はい。それじゃ、成功したのね? うん。えーと、ちょっと待って。黒木さんに代わります」
彼女が振り向く。黒木はすぐに来て受話器を受け取ると、数分の間ドイツ語で会話したあと、静かに電話を切った。

「どうやら上手く行ったらしいですね。犯人は無事逮捕されたそうです。それと、彼、日本でのコンサート契約を取り付けたらしいですよ」
「はあ」
「事件のあと、レストランのオーナーや藤倉君と話をしたそうです。まったく、あの男も、転んでもただでは起きないタイプのようですな」
「そうですか」
美樹はそれよりも井倉やハンスがどうなったのか知りたかった。が、そちらの情報は特になかったようなので落胆した。

その時、ドアチャイムが鳴り、飴井が井倉と彩香を連れて帰って来た。
二人共、相当神経を使ったらしく、やつれた感じがした。
「お帰りなさい。疲れたでしょう? 何か飲む? 食事は?」
「わたしはレストランでいただいて来ましたから……。先にお部屋で休ませていただいてもいいですか?」
「ええ。もちろんよ。何かあったらいつでも呼んでね」
「ありがとう」
そう言うと彩香は階段を上がって行ってしまった。

「井倉君は?食事にする? それとも……」
「すみません。何も口に入りそうになくて……。それよりハンス先生は? 何か連絡はありましたか?」
「いいえ。まだ何もないわ」
「そうですか」
彼は肩を落とした。
「じゃあ、井倉君もお部屋で休む?」
「いえ。どうせ上に行っても眠れないだろうし、リビングで皆さんと一緒にいてもいいですか?」
「もちろん構わないわよ」

が、井倉はそれ以上、何も喋らなかった。ただじっとソファーに座り、なにかを考えているようだった。美樹が飴井のためにコーヒーを運び、彼はその一杯だけを飲むと車で家に帰って行った。


「井倉、もうそろそろ休んだ方がいいんじゃないのか?」
11時50分を過ぎた頃、黒木が言った。
「……そうですね。それじゃあ」
そう言って彼が立ち上がろうとした時だった。玄関のドアが開いてハンスが帰って来た。

「お帰りなさい、ハンス。ルドルフは?」
美樹が玄関に出て言った。
「彼はまだ現場にいます。僕だけ先にタクシーで来ました」
「そう。井倉君と彩香さんは帰ってるの。彼女はお部屋で休んでるけど、井倉君は……」
美樹の話の途中で井倉が割り込んで来た。

「先生……。どうしてですか?」
深刻な顔で詰め寄る。
「井倉君、よかったですね。無事に彩香さんを奪還できて……」
ハンスは軽く流してフロアに出た。

「先生! ごまかさないでください! 先生は国際警察の人間なんでしょう?」
「ええ。そうですよ。それが何か?」
「それが何かって……。どうして教えてくれなかったんですか?」
「それは機密だから……」
ハンスはそう言って微笑する。
「僕にはわかりません。あれだけのピアノの腕を持っているのに、何故そんな危険な仕事をしているんですか?」
「言ったでしょう? 機密だから、それがばれないように表向きの仕事も必要なんですよ。そうでないと、近所からヒモだの何だのって余計な中傷をされてしまいますからね」

「そうじゃなくて、僕が訊きたいのは、先生のお気持ちの方です」
「気持ちか……そうですね。僕は日本が好きだから……。母が生まれた国だし、美樹ちゃんもいるしね。護りたいから……」
「本当にそれだけなんですか? それじゃ、ピアノは?」

「ピアノは僕のすべてでした。けど、それが叶わなくなってしまった今、こうして君や子ども達に教えることが今の僕の支えであり、喜びになっているんです」
「それなら尚更……!」
「僕はもう、舞台を降りた人間です」
「だからって、どうして国際警察なんかに……」
「堂々巡りです。君の質問も、僕の答えも……だから、もうやめましょう」
ハンスは背中を向けて階段に向かった。

「先生!」
「君も疲れているのでしょう? 早く休んだ方がいい」
一瞬だけ振り向いてハンスが言った。
「最後に一つだけ聞かせてください」
井倉の言葉に、ハンスは背中を向けたまま足を止めた。
「今回のお見合いは……。彼女を囮に使ったんですか? この機会を利用して、テロの犯人を捕まえるために……」
「そうです。作戦は成功しました。何の問題もなくね」
ハンスは階段の手すりに手を置いたまま冷たく言った。

「問題なく? それじゃあ、彩香さんの気持ちはどうなるんですか? それに、もし失敗したら……」
「失敗はありません」
その時、時計が零時を告げ、彼は振り向いて井倉を見た。
「それに、今回の作戦は君のためでもあったのですよ。君が危険の中から彼女を救う。女の子を惚れさせるには最高のシチュエーションだ。あとは君の努力次第。では、今後の君の健闘を祈ります」
それだけ言うとハンスは階段を上って行ってしまった。

「ハンス先生!」
井倉は涙を流していた。
「違う。こんなんじゃない。僕が知りたかったのはこんなんじゃ……」
「井倉……」
黒木がそっと彼の肩を抱き、美樹はハンスを追い掛けて階段を上って行った。


その夜。井倉は1階の和室で黒木と寝室を共にした。畳の上に敷かれた布団に入ると、妙に心が落ち着く気がした。
「いやなら、私はリビングのソファーを借りることにするよ」
黒木が言った。
「いえ、ここにいてください」
布団は二組あった。和室は8畳。十分な広さがあった。井倉は布団の中で半身を起こしたままでいた。そろそろ灯りを消そうかと黒木がリモコンに手を伸ばした時だった。井倉がぼそりと言った。

「……怖い」
そして、顔を伏せる。その言葉に黒木ははっとした。

――あの子は、あなたのことが怖いって……

失った息子の顔と重なった。黒木はそっと彼の背を摩った。そのやさしさが20年前の自分にあったならと後悔した。
「僕、すごく怖くて……。足が竦んで……。彩香ちゃんのこと助けなくちゃって、わかってたのに……。ハンス先生にはあんなこと言ったけど、ほんとは自分のことだけで精いっぱいで……。立っているのさえ精一杯で……」
井倉は泣き続けた。
「どうしてあんな風に強くなれるんだろう? ハンス先生は……。ピアノだけでも大変なのに、その上、好きな女の子を守って危険な仕事をするなんて……。僕にはとても考えられない。僕にはできない。とてもハンス先生のようには……生きられない……」

――黒木さん、貴方にお願いしてもいいですか? 井倉君のこと

以前、ハンスが言っていた。

――彼は素直でいい子です。けど、それ故に傷付きやすくて脆い。一度は僕が助けました。けど、二度目はうまく行かないかもしれない。その時は黒木さん、彼を助けてあげてください

(ハンス先生……。だが、一番傷付きやすいのは、貴方なんじゃないですか? 癒えないその傷を背負って、貴方は何処へ行こうと言うのです? もしも、その傷を癒すお手伝いができるとしたら……いつか私や井倉がその手助けになるならば……どうかその時にはぞんぶんに使ってやってください)
黒木は花瓶に飾られた花の影を見て言った。

「井倉……。本当は誰だって怖いんだよ」
「……?」
「そうだ。私だって怖いんだ。ハンス先生も私も……。誰も鉄の心臓を持っている訳じゃない」
「先生……」

「だから、泣いていいんだよ。泣きたい時には思い切り泣いていいんだ。涙は、生きるために必要なものだ。だけど、無理はするな。誰かと比べようとするんじゃない。おまえにはおまえにしかない良さがある。私もハンス先生も、彩香君だってちゃんとわかっている。だから、あんまり卑下するな。もっと自分自身を労わってやりなさい。おまえは今、とても疲れているんだ。いろいろなことがあって、疲れているだけ……。明日になれば、また元気が出て来る。大丈夫。だから、今はおやすみ」


翌日。井倉はいつも通りの時間に起きて、花壇に水をやった。黒木はラジオ体操を済ませると、美樹と二人で朝食を作り、ハンスは猫達の世話をした。朝食の時間には彩香も階下へ来て一緒に食事をした。が、皆あまり会話をせずにテレビを見ている時間が長かった。
「今日は午前中のレッスンをお休みします」
ハンスが言った。
「はい」
「わかりました」
彩香と井倉が頷く。いつも午前中にやって来るフリードリッヒも姿を見せない。ハンスが連絡したのだろう。

「井倉君、オセロゲームしませんか?」
ハンスが言った。
「いえ。すみませんけど、今はそういう気分じゃないので……」
あっさり断る井倉を見て、ハンスは少し寂しそうな顔をした。
「ハンス先生、わたしでよければお相手しますわ」
彩香が言った。
「彩香さんが? じゃあ、お願いします」
二人は早速盤をテーブルに置くとゲームを始めた。

「あの、僕、散歩に出掛けてもいいですか?」
井倉が訊いた。
「いいですよ。気分転換も大事です」
ハンスが頷く。
「お昼までには戻ります」
そう言うと彼は出て行った。


それから、井倉は一人で海の方へ歩いて行った。JR駅近くの公園には色取り取りの薔薇が咲いていた。夏の陽射しは眩しかったが、潮風が気持ちいい。
「一人になるなんて久し振りだな」
欄干に手を置いて海を見ていると、何もかもが遠い思い出の向こうの出来事だったように思える。そんな海の彼方で汽笛が鳴り、スケートボードに乗った金髪の少年が背後を通り過ぎて行った。透き通った海の底にはヒトデの群れが覗く。

「井倉くーん!」
ふいに誰かが彼の名を呼んだ。振り向くと向こうからマイケルが駆けて来る。
「やあ、どうしたの? こんなところで」
相変わらず気さくな感じに話し掛けて来る。
「散歩です」
「うん。ここはいいよね。広々として気持ちがいいし……」

「あの、もしかしてハンス先生に頼まれたんですか?」
井倉が訊いた。
「え? ああ、署名のこと? これから持って行こうと思ってたんだよ」
「署名?」
「10枚200人分あるよ。住所がアメリカでもいいんだよね?」
そういえば、ハンスが嘆願書の署名を頼んでいたことを思い出して頷いた。
(じゃあ、ここで会ったのはやっぱり偶然だったのか)

「それとね、ここで人と待ち合わせしてるんだ。井倉君も知っている人だよ。もう来るんじゃないかな?」
「知ってる人?」
(誰だろう? 僕が知っている人って……)
怪訝に思っているとマイケルが手を振ってその人物を呼んだ。
「ヘイ! こっちだよ」
それはハンスの兄、ルドルフだった。

「ん? 何で井倉がここにいるんだ?」
ルドルフが訊いた。
「さっきね、偶然会ったんだ。彼は散歩してたんだって……」
(やっぱり偶然だったんだ)
「あの、それじゃ、僕はこれで……」
井倉が立ち去ろうとするのをマイケルが止める。
「まだ何処かに行くの?」
「いえ、特には……」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ。僕達もハンスのところに行くとこだから……」
「え? はい。別に構いませんけど……」
井倉は少し尻込みするように言った。ルドルフ・バウアー。向かい合っているだけで威圧感を感じるようなこの男は苦手だった。が、今なら、その理由がわかる。彼もまた、ハンスと同じ国際警察の人間だったからだ。

「昨夜のこと、すまないと思っている」
何の前触れもなく、突然、ルドルフが言った。
「え?」
戸惑う井倉。
「ハンスは最後まで反対したんだ」
(ハンス先生が……)
「おまえや彩香嬢を巻き込むことにな。だが、これはテロリストを逮捕する絶好のチャンスだった。それで、俺が強引に押し切った。責任は俺にある。だから、あまり奴を責めないでやって欲しい」
「責めるだなんて、そんな……」
(ハンス先生はちゃんと考えてくれていたんだ)
井倉の目にじわりと涙が浮かぶ。

「どうしたの? 井倉君。目にゴミでも入った?」
マイケルが尋ねる。
「何かそうみたい……」
彼はポケットから取り出したハンカチで目をこすった。
「それじゃ、行こうか?」
マイケルは先に立って歩き出すと、軽く振り返ってウインクした。


家に帰ると、美樹が泣いているハンスを慰めていた。
「どうしたんですか?」
井倉が訊いた。
「それがね、彩香さんと3回対戦して続けて負けちゃったのよ。それですっかり拗ねちゃって……」
「美樹ちゃんまで負けたって言ったぁ」
ハンスが更に大声を上げる。
(そうだった。彼は子どもと同じ)
井倉は彼の前に立つと言った。
「それじゃあ、先生、僕とやりませんか?」

「井倉君と?」
「はい。僕だって負けませんよ」
井倉が笑ったのでハンスも早速駒を持つと強気に言った。
「ふふ。いいんですか? そんなこと言って……。井倉君弱いのに……」
「弱いなら弱いなりのやり方がありますから……」
井倉が元気になったので、皆もほっと笑顔になった。


午後になると、もう一ついいニュースが届いた。彩香の父が釈放された。早速彼女は父と電話で話した。父はまだハンスのことをあまりよくは思っていないようだったが、それ以上に浮屋に対して腹を立てていた。
――あんな男のところにおまえを嫁がせないで本当によかったよ
電話の向こうで父は言った。しかも、テロリスト達のターゲットは自分達であり、ハンス達はそれを阻止するためにあんな行動に出たのだということもわかった。テロリストによって仕掛けられた爆弾の一つが、自分達が使っていたテーブル近くの花瓶の中から発見されたことも聞かされた。そのことでハンスに恩義を感じていた有住は、個人的な感情を差し引いて、彩香がここにいることを許してくれた。そして、彼自身、釈放されたといっても完全に身の潔白が証明された訳でもないので、当分の間忙しくなるだろうということもあった。が、それでも彼らにとっては朗報に違いなかった。


そしてまた、いつも通りの日々が始まる。次の日。午前中にやって来たフリードリッヒがうれしそうにハンスに報告した。
「ハンス。やったよ! コンサートが決まったんだ。全国ツアーだ。すごいだろう?」
「へえ。それはよかったね」
彼は気がないような返事をした。
「何しろ、ショパンコンクール優勝の私だからね。どのホールでも喜んで来て欲しいってことだそうだ。これでまた、当分は日本にいられるよ」
「そんなに日本にいなくてもいいよ。金稼いだら、さっさとドイツへ帰ってくれ」
ピッツァとリッツァの頭を撫でながらハンスが言った。

「何を言ってるんだ。君も一緒に全国ツアーに出るんだよ」
フリードリッヒは強くハンスの手を握り締めて言った。
「何だって? 冗談じゃない! そんなこと勝手に決めるなよ。僕は出ないからな!」
「どうしてさ? みんな楽しみにしているんだよ」
フリードリッヒが詰め寄る。
「ショパンコンクール優勝のおまえが出るんだ。十分だろ?」
「いいや、違うね。実力は優るとも劣らない君との連弾が実現すれば若い女性達は卒倒する騒ぎさ」
「おまえはリストか? 悪いけど、僕は興味ないね。断ってくれ」
「しかし……」

「まあまあ、本人がこんなにいやだと言っているんだから……」
黒木に諭され、フリードリッヒは渋々承知した。
「もう契約してしまったのに……。じゃあ、井倉、君でもいいよ。これから特訓すれば何とかモノになるかもしれない」
突然、話の対象が自分に向けられて、井倉は焦った。
「い、いえ、とんでもありません。僕なんか、まだ修行の身ですので……」
「いいや、何とかなる。この私がレッスンするんだ。そうなってくれなければ困る」
井倉の肩を掴んで笑う。

(この人よくわからない。本気なのか、冗談なのか……。きっと冗談だよね)
ちらとハンスの方を見ると、彩香が笑いながら彼と話していた。
(彩香ちゃん、すっかり元気になったみたい……)
井倉もうれしくなって笑みがこぼれる。
「おお。そんなにうれしいですか? 私のレッスン受けるのが……」
「え?」
「なら、スペシャルメニューのレッスンで猛特訓しましょ。そして、2カ月後には全国ツアーです」
「え? ええっ? そんなぁ! ハンス先生、助けて!」
が、たった今彼らが入った地下室への扉は、無情にも彼の目の前で閉まってしまった。